プラトンの場合

 プラトンによると、私達は自分の人生を自ら選んで生まれてきたということです(*)。生まれ変わる前に、様々なタイプの人生(動物なども含まれる)の見本を見せられ、そのいずれを選択するかは全く各人の自由で、神様はなんら関知しないのです。地獄で辛酸を嘗めた者は勢い慎重に選択をし、天国でうかうかと暮らしたものは見るも憐れな選択をするようです。ともあれ、その結果として、今現在、世界には多種多様な人々が生まれ存在しているというわけです。
 しかし、私達は自分で人生を選択したなどとは夢にも思っていません。何故かと言うと、生まれる前に、忘却の原を横切って忘れ川の水を飲んだため、全てを忘れているからです。これはむしろ幸運と思うべきです。もしも、この人生の責任が自分の選択にあるなどということが分かっていたら、後悔に苛まれるでしょう。
 それにしても世の中には、人も羨む充実した輝かしい人生もあれば、その正反対の人生もあります。その何れも選択の結果というのですが、これにはちょっと考えさせられます。もしかすると、善悪、幸不幸、好き嫌いといったものの本質は、天の高い視点からすればかなり色合いの異なるものであって、例えば、明るい色合いが多いと、暗い色合いが深みを加えるといった感じで、近視眼的な見方を強いられている現世の人間では理解が困難なものかもしれないとも思ったりします。どういう訳か、我々がものの選択を行うに当たって、悪事、不幸、嫌悪感というものを、そのまま単純には取り除いたりはしないようです。
 そんなはずはない、人生は選択の結果などということはあり得ない、と思う人もいるでしょう。しかし、考えてみると、自分で選択した人生なら仕方がないものの、もしも他人が決めた人生だったとしたら「勝手に決めるな」と言いたくなります。とすれば、生まれる前の話は証明のしようがない以上、この「生まれ変わり論」も、現世に矛盾なく接続する一つのパラダイムとなっているように思えます。同様の異なるパラダイムが、宗教の数だけ存在しており、原理的にはそれらは間違っているとも正しいとも言えないものじゃないでしょうか。

*プラトン「国家」

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